第9章 動的平衡(ダイナミック・イクイリブリアム)とは何か
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砂上の楼閣
生命とは要素が集合してできた構成物ではなく、要素の流れがもたらすところの効果
この事実を精密な実験で、つまりマクロな現象をミクロな解像力をもって証明したのは、ルドルフ・シェーンハイマーという人物であり、それがなされたのは1930年代後半 シェーンハイマーのアイデア
彼が研究を始める頃までに、水素、炭素、窒素などの主要な元素には同位体(アイソトープ)と呼ばれるものが存在することが明らかになり、実際にそれを人工的に作り出す事が可能になっていた 陽子7個、中性子が8個、質量数15
化学的性質には変わりがないが、わずかだけ重い
普通の窒素と重窒素は質量分析計を用いることによって見分けることができる シェーンハイマーはこの重窒素を標識をつけた「追跡子(トレーサー)」として生物実験に使用するという画期的なアイデアを思いついた ひとたび食べてしまえば普通、そのアミノ酸は体内のアミノ酸にまぎれて行方を追うことは不可能となる
しかし、重窒素をアミノ酸の窒素原子として挿入すれば、そのアミノ酸は識別できる
重窒素の行方
普通の餌で育てられた実験ネズミにある一定の短い時間だけ、重窒素で標識されたロイシンというアミノ酸を含む餌が与えられた このネズミは殺され、すべての臓器と組織について、重窒素の行方が調べられた
他方、ネズミの排泄物もすべて回収され、追跡子の収支が算出された
ここで使用されたネズミは成熟したおとなのネズミだった
シェーンハイマーも予想した、当時の生物学の考え方
もし成長の途上にある若いネズミならば、摂取したアミノ酸は当然、身体の一部に組み込まれるだろう
しかし成熟ネズミならもうそれ以上は大きくなる必要はない
事実、成熟ネズミの体重はほとんど変化がない
ネズミは必要なだけ餌を食べ、その餌は生命維持のためのエネルギー源となって燃やされる
しかし実験結果は彼の予想を鮮やかに裏切っていた
重窒素で標識されたアミノ酸は三日間与えられた
この間、尿中に排泄されたのは投与量の27.4%、糞中では2.2%
ほとんどのアミノ酸はネズミの体内のどこかにとどまった
与えられた重窒素のうち半分以上の56.5%が、身体を構成するタンパク質の中に取り込まれていた
しかも、その取り込み場所を探ると、身体のありとあらゆる部位に分散されていた
当時最も消耗しやすいと考えられていた筋肉タンパク質への重窒素取り込み率ははるかに低いことがわかった
実験期間中、ネズミの体重は変化していない
タンパク質はアミノ酸が数珠玉のように連結してできた生体高分子であり、酵素やホルモンとして働き、あるいは細胞の運動や形を支える最も重要な物質 そしてひとつのタンパク質を合成するためには、いちいち一からアミノ酸をつなぎ合わせなければならない
重窒素アミノ酸を与えると瞬く間にそれを含むタンパク質がネズミのあらゆる組織に現れるということは、恐ろしく速い速度で、多数のアミノ酸が一から紡ぎ合わされて新たにタンパク質が組み上げられているということ
さらに重要なこと
ネズミの体重が増加していないということは、新たに作り出されたタンパク質と同じ量のタンパク質が恐ろしく速い速度で、バラバラのアミノ酸に分解され、そして体外に捨て去られているということを意味する
つまり、ネズミを構成していた身体のタンパク質は、たった三日間のうちに、食事由来のアミノ酸の約半数によってがらりと置き換えられたということ
ダイナミックな「流れ」
さらにシェーンハイマーは、投与された重窒素アミノ酸が、身体のタンパク質中の同一種のアミノ酸と入れ替わったのかどうかを確かめてみた
つまりロイシンはロイシンと置き換わったのかどうか
ネズミの組織のタンパク質を回収し、それを加水分解してバラバラのアミノ酸にする 二十種のアミノ酸をその性質の差によってさらに分別する
そして各アミノ酸について、重窒素が含まれているかどうかを質量分析計にかけて解析した
確かに実験後、ネズミのロイシンには重窒素が含まれていた
しかし、重窒素を含んでいるのはロイシンだけではなかった
体内に取り込まれたアミノ酸は、さらに細かく分断されて、あらためて再分配され、各アミノ酸を再構成していたのだ
それがいちいちタンパク質に組み上げられる
つまり、絶え間なく分解されて入れ替わっているのはアミノ酸よりもさらに下位の分子レベルということになる
物質が「通り過ぎる」べき入れ物があったわけではなく、ここで入れ物と呼んでいるもの自体を、通り過ぎつつある物質が、一時、形作っていたにすぎない
つまりここにあるのは、流れそのものでしかない
私たちは、自分の表層、すなわち皮膚や爪や毛髪が絶えず新生しつつ古いものと置き換わっていることを実感できる
しかし、置き換わっているのは何も表層だけではない
身体のありとあらゆる部位、それは臓器や組織だけでなく、一見、固定的な構造に見える骨や歯ですらその内部では絶え間のない分解と合成が繰り返されている
入れ替わっているのはタンパク質だけではない
貯蔵物と考えられていた体脂肪でさえもダイナミックな「流れ」の中にあった
体脂肪には窒素が含まれないので、シェーンハイマーは水素の同位体(重水素)を用いて脂肪の動きを調べてみた それまでは、脂肪組織は余分のエネルギーを貯蔵する倉庫であるとみなされていた
同位体実験の結果
貯蔵庫の外で需要と供給のバランスがとれているときでも、内部の在庫品は運び出され、一方で新しい品物を運び入れる
私たちが仮に断食を行った場合、外部からの「入り」がなくなるものの内部からの「出」は継続される
身体はできるだけその損失を食い止めようとするが「流れ」の掟に背くことはできない
私たちの体タンパク質は徐々に失われていってしまう
したがって飢餓による生命の危険は、エネルギー不足のファクターよりもタンパク質欠乏によるファクターの方が大きい
エネルギーは体脂肪として蓄積でき、ある程度の飢餓に備えうるが、タンパク質はためることができない
生物が生きているかぎり、栄養学的要求とは無関係に、生体高分子も低分子代謝物質とともに変化して止まない。生命とは代謝の持続的変化であり、この変化こそが生命の真の姿である。
絶え間なく壊される秩序――動的平衡
生命とは自己複製するシステムである
らせん状に絡み合った二本のDNA鎖は互いに他を相補的に複製しあうことによって、自らのコピーを生み出す こうしてきわめて安定した形で情報がDNA分子の内部に保存される これが生命の永続性を担保している。
自己複製が生命を適宜付ける鍵概念であることは確かではあるが、私たちの生命観には別の支えがある
鮮やかな貝殻の意匠には秩序の美があり、その秩序は、絶え間のない流れによってもたらされた動的なものであることに、私たちは、たとえそれを言葉にできなかったとしても気づいていたのである
現在、私たちは、脳細胞のDNAでさえも不磨の大典ではないことを知っている 脳細胞は発生時に形成されると一生の間、わずかな例外を除き、分裂も増殖もしないとされている
つまりここにはDNAの自己複製の機会はない
脳細胞の内部では常に分子と原子の交換がある
脳細胞のDNAを構成する原子は、むしろ増殖する細胞のDNAよりも高い頻度で、常に部分的な分解と修復がなされている
秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない
なぜか?ここにシュレーディンガーの予言が重なる
集合体は離散し、反応は乱れる
タンパク質は損傷を受け変性する
しかし、もし、やがては崩壊する構成成分をあえて先回りして分解し、このような乱雑さが蓄積する速度よりも早く、常に再構築を行うことができれば、結果的にその仕組は、増大するエントロピーを系の外部に捨てていることになる
つまり、エントロピー増大の法則に抗う唯一の方法は、システムの耐久性と構造を強化することではなく、むしろその仕組自体を流れの中に置くことなのである
つまり流れこそが、生物の内部に必然的に発生するエントロピーを排出する機能を担っていることになる
私はここで、シェーンハイマーの発見した生命の動的な状態(dynamic state)という概念をさらに拡張して、動的平衡という言葉を導入したい 自己複製するものとして定義された生命は、シェーンハイマーの発見に再び光を当てることによって次のように再定義されることになる
生命とは動的平衡にある流れである
そしてただちに次の問いが立ち上がる
絶え間なく壊される秩序はどのようにしてその秩序を維持しうるのだろうか
それはつまり流れが流れつつも一種のバランスを持った系を保ちうること、つまりそれが平衡状態を取りうることの意味を問う問い